長浜~京都間全通以来、山岳線であった馬場(膳所)~稲荷間は、輸送上の大きな障害となっていた。それを解消すべく、大正初期、現在の線に付け替えられ、また、駅数も減った。そして、旧線は廃線となった。この旧線は、日本初の、日本人技師を中心としたメンバーにより建設された山岳線である。今回は、よく取り上げられている山科~浜大津間の廃線跡ではなく、逆方向の山科~京都間を探索する。
旧山科駅跡~稲荷
山科駅付近は、名神高速道路が廃線跡に作られていて、ほとんど痕跡がない。ここに鉄道があったということを示すのは、山科駅跡にある、記念碑のみである。(現在の山科駅とは異なる位置にあり、距離もだいぶある。周辺住民の移転に対する反発もさぞ大きかったであろう。)
この看板によると、旧山科駅も、現在の名神高速と同様な築堤上にあったらしい。付近の川は、改修が進み、橋脚などの遺構は全くない。
山科駅付近は、このような廃線跡が続く。
勧修寺の裏手を通り、しばらく廃線跡を進むと、このような崖がある。これは、状態から、当時作られた切りとおしと思われる。右の道は、K35。ここをしばらく行ったあたりから、廃線跡は、K35に重なる。
竹林の中を進む廃線跡。左右の傾斜から、切りとおしでないことが分かる。また、両側が竹林なことから、当時から竹林はあり、線路が竹林を横断していたものと思われる。
鉄道らしい緩やかなカーブ。今にも汽車が走ってきそうである。
左側は、築堤となっている。右に見える切り通しは比較的新しいことから、県道化する際に拡幅した時のものと思われる。このことから、左側の築堤は、当時のものの可能性が高い。
奈良線とK35の平面交差に近い場所に不自然な空き地がある。県道は、奈良線と垂直に交差しているが、旧東海道線は、奈良線に沿って京都駅まで通じていたことから、ここの空き地は、廃線跡の可能性が高い。なお、右の写真の道は、左の写真の方向と正反対の向きにK35からわかれている道である。また、この道は細いが、直線が多く、カーブが緩やかなので、廃線跡の可能性が高い。
先ほどの道は、名神高速に遮られてしまっていた。このあたりに来ると、地上からの探索は、難しくなってくる。宅地化し、廃線跡の痕跡はほとんどなくなっている。このあたりから、奈良線と並走していた。
付近には、御陵があることから、これを避けて奈良線と合流していたに違いない。
少し前までは、東海道線の並走区間の遺構が残っていたらしいが、高架化工事により完全に消滅している。
稲荷駅構内には、当時のランプ小屋が保存されている。これは、このあたりの東海道線の数少ない遺構の一つである。貴重な遺産なので、木製のナチュラルな看板が掛けられている。他の遺構よりも、保存に力が入れられている気がしなくもない。
国鉄やJRの路線で、付近の名所の名前の駅は珍しい。このことから、ここが古い駅だということが分かるのではないだろうか。ここから先、稲荷駅から京都までは、旧東海道線は、奈良線に沿って進む。京都からは、並走区間も終わり、現在の東海道線と合流する。
稲荷駅を過ぎたあたりに、標準軌の線路が置いてある駐車場があった。なぜだろう?線路の二本のレールの間には、大量のレールが…何故、在来線の沿線に標準軌…謎は深まるばかりだ。